思考ノイズ

無い知恵を絞りだす。無理はしない。

<ネタバレ有り> スイス・アーミー・マン

この映画を最初に知ったのは芸人「アルコ・アンド・ピース」のラジオで取り上げられていたことです。

f:id:bython-chogo:20171009175031j:plain

ある島で遭難した主人公がその島で遭遇した死体。その死体はサバイバルに必要な「死体のおならでジェットスキーのように海を渡る」などの便利な機能をもっていた。この時点ですでにぶっとんだ設定ですが、ダメ押しとして、その死体を演じるのがあのハリーポッターダニエル・ラドクリフということです。これはあれだ、「打ち上げ花火ー」に続く、俺がみなくてはならない案件だ。流行りでいうならばにゃんこスターの「おいらが見なけりゃ、だれがみるってんだい」案件です。

祝日の昼間の映画館で人入りはまあまあ。カップル、女子通し、一人もの、の割合は 3:3:4 といったところでしょうか。 設定がぶっとんでいて、下品なネタも多いので、低俗な笑いで受けを狙う映画、として捉われてしまいそうですが、個人的にはいろいろ思うところがある映画でしたので、すべてを書かせてもらおうと思っています。そのため、ネタバレも含まれます。これから見に行く予定の方はご注意のほどをお願いいたします。

なお、映画を見てすぐに書いてますが、記憶があいまいなところが多く、会話の詳細が間違っている可能性が大きいですが、ニュアンスでとらえていただければと思います。

感想 - ネタバレ有

遭難した主人公はさえない人生をおくっていたさえない若者で、偶然バスで出会った女性に声をかけられずにスマホのカメラで隠し撮りをおこなって待ち受けにするという小心者。家庭環境もあまり恵まれてなく、偏屈な父親と、若くして亡くなった母親へのコンプレックスというのも背景としてかかれています。 遭難したときに偶然遭遇した「死体」の便利な機能に気づき、その機能を使いながら困難を乗り越えていきます。また一方でその死体はしゃべることもでき、ただ生前の記憶はない状態のようで、主人公は死体に言葉、感情、一般的な常識的行動などを教えながらコミュニケーションをとっていきます。

先ほどいったように、「死体のおならでジェットスキーのように海を渡る」「死体の口から飲み水がでてくる」「死体の勃起したイチモツがコンパスのように方向を示す」といった一見すると下品なネタで笑いを取っているだけにもみえてしまいます。実際、映画終わりでそのような感想を言っている声もきいたのですが、私としては下ネタだけで興味を持続させている映画ではないと思っています。

遭難しているという主人公の過酷な環境は言わば、「非常識・非現実」な世界に置かれています。それに加えて、道具として使え、しゃべる死体がいるという状況が非常識に拍車をかけており、その死体とのコミュニケーションのなかで、いままでの自分の生き方、常識と非常識、理想と現実、について自然と問いかけるようになっていきます。そもそもこの非常識な死体には、常識は通用しません。「人前でおならをしないのが常識なんだ」と教わると「わあ、なんて最悪な世界なんだ」(おならを道具として海を渡ったのに、という背景がある。)、などの純粋な感想を投げかけます。さらに終盤でも「そんなに常識にしばられているのに故郷に帰る必要があるのかい?」と主人公に問いかけをします。 また、ほかのポイントとして、主人公はその死体にうそをつくというシーケンスがあります。主人公がバスで隠し撮りした女性の写真に一目ぼれしてした死体は、その女性に会うことをモチベーションとして主人公を手伝うようになります。遭難中の森の中、バスを模した即席のセットを作成し、さらに主人公を女装させ、女性とバスで出会い、声をかけるシチュエーションを演出をしながら2人は絆を深めていくようになります。しかし、バスで出会った女性はすでに結婚していて子供もいるので、なんにせよかなわない恋となります。主人公はそのことを隠しながら死体を盛り上げる趣向を繰り返します。これは遭難、しゃべる死体、という非現実的な状況下でこそ積み上げられる、「現実ではない世界」の中に「理想の世界」を2人で作り上げていることにほかなりません。いわばこの妄想的な世界感においては、こんな非現実な世界でもとがめる人は出てきません。そこはだれも見ていない、自由な空間だからです。これは映画を見ている我々観客もその妄想の世界を一緒に楽しんでいくようになります。

その楽しい非現実世界にも終わりが来ます。現実世界にもどってしまうと妄想を繰り広げる自由はありません。やっと人里におりてきた2人を待ち受けるのは現実世界の人の目です。ボロボロの服をきた主人公、その携帯のカメラにはバスで隠し撮りした女性の画像、森の中には手作りされたバスのセットという妄想の亡骸、そしてしゃべっていた死体は、一般的な常識通りにしゃべらなくなってしまいます。一緒に非現実世界を楽しんでいた観客も、我に返りざるを得ません。私たちが楽しんでいたこの妄想の世界は、一般社会的には超異常な変態的な世界なのだと気づかされるからです。 この現実に戻る直前、死体がしゃべらなくなく前に死体は主人公にこういうのです。「人前で大きな声で歌をうたうことも、おならをすることも、誰かが少しづつ認めてくれれば、変わっていくんじゃないか」。 そして常識の目をもった人たちのまえで、狂人としてとらわれている主人公、そんな主人公はある「一般社会的に非常識的な行動」をします。この行動は常識をうちやぶる奇跡をおこすこととなります。

常識に「自由な発想」をつぶさせない

常識というのは社会生活では必要な規範となる一方、自由な発想を妨げる制約になります。せめて人目が届かないところでは、常識に問われることなく、自由な発想で、自分のやりたいことを突き通してもいいのではという提案にも感じ取れました。もしその発想に共感する人が一人あらわれ、さらに理解者の輪が広がっていけば、いつか常識を覆す新しいパラダイムシフトが生み出される、そんな励ましを勝手ながら感じ取ってしまいました。

そしてラドクリフがすごい!

この映画の見どころはやっぱり死体役のラドクリフとなってきます。便利な道具をおこなう死体、というなんのこっちゃわからない役を怪演しきっていたと思います。ほんと見事な死体っぷりでした。子役時代、ハリーポッターで華々しくデビューした彼ですが、実はこうした怪役のほうが性に合っているのではないかと思いました。日本のドラマでいう高嶋政伸のように、非常識的なキャラクターがぴったりくる印象をもってしまいました。願わくば、この路線を突き進んでほしいものです。

まとめ

このようにぶっとんだ設定や下ネタで笑いを起こして楽しいのですが、実はその裏には社会生活の常識と、それに自然と縛られている私たちの発想、というテーマを垣間見ることができました。入口はただただぶっとんだ映画ですが、持って帰るものも多かった一作、怪作となったのは間違いないと思います。