思考ノイズ

無い知恵を絞りだす。無理はしない。

カルテット第6話・感想

第一章が第5話(おそらくは前半部分)で終わり、第二章が(おそらくは第5話後半部分)から始まってからカルテットのドラマ性が大きく変わったように見える。

まず、一章はさりげない会話劇や動作が実は伏線としてストーリーの重要なコア部分に関わってくることがおおい。それをぼかしながら見せる、グレーの演出が魅了にあったと思われる。一方で、二章はどうだろう。第5話の有朱(吉岡里穂)の問い詰め、さらに巻夫妻(宮藤官九郎松たか子)の夫婦生活の破たんへの回想などひどく直接的な白黒をつけるための演出となっている。さらに第2章にはいってから、カルテットのメンバーが4人でそろうことがなくなってしまった。最後にそろったのはあの幸せな路上演奏のシーンではないだろうか。それに伴い一章からのこのドラマの魅力であった四人での会話劇もなくなっていることになる。

さて、第6話のメイン、巻夫妻の回想シーンに話を戻そう。ここのシーケンスはなんとえぐい描写なのだろうか。この回想の過程で真紀(松たか子)が今まで漏らしてきた、から揚げにレモン、愛しているけど好きじゃない、などといった夫とのエピソードを幹夫(宮藤官九郎)視点がメインで回収されていくことになっていく。お互いを認め合った夫婦のちょっとしたずれが積み重なっていき、ダムの決壊のように最後に崩壊を引き起こす過程がリアルに描かれている。この夫妻の対比として描かれているのは家森(高橋一生)元夫妻だろう。入院の現場で「寝ているときに掃除機を顔にかけられる」「なんで一日三食食事をするのかと怒られる」といったエピソードは、憂鬱な回想シーンの清涼剤ともなてもいたが、この問題が丸見えの家森夫婦とちがい、巻夫婦の問題は表から見えにくい。でも少しずつのずれが夫婦を確実に壊していくのだ。真紀には悪気はないのだが、詩集を鍋敷きに利用され、好きな映画の共有もできずに、さらに直接的な話し合いもできず、ずれの修正の試みもできなかった非常に不器用な2人が痛い。特に幹夫の不器用さも際立っている。妻との違和感が高まる中での元カノ?の接触にも積極的にのらない。気になっていたのだとは思うのだが、不貞はしない・できないのだ。もしここで元カノに走ることができたら全く別のドラマになるはずだ。

このシーン、夫婦生活5年の自分にとって感情移入なしにみることができなかった。なにがいけなかったのだろうか。もしこの夫婦に子供がいたらどうだろうか。子育てにおける別の衝突があるかもしれないが、子育て事態に集中をすることで夫婦間のちょっとした違和感に気を取られる暇すらないかもしれない。そうした不幸も重なる。ぐさりぐさりと刺さる演出を妻と一緒にみていたが、有朱にバキバキに「夫婦生活は幻想だ」と白黒はっきりと詰め寄られている感覚に襲われていくことになる。

そんなダメージが癒えない中で、その有朱の衝撃のベランダからの落下シーンがでてくる。なんなんだこのドラマは。もう感情移入がはげしくどっぷりはまってしまった。こんなに精神をやられているにも関わらず次が待ち遠しくてしかたない。